禅問答 香厳上樹 (無門関 第5節)
「お坊さんが、木の上に登って、口で枝をくわえ、手は枝をつかまず、脚は枝を踏まず、口だけでぶら下がっている状態のところに、木の下に人がやってきて、仏教とはなんですか、と質問します。
答えなければ、その人はよそに行ってしまう。しかし答えれば口をひらかなければなりません。落ちて死んでしまいます。といって、答えなければ、お坊さんとしての使命が果たせません。ではどうすればよいか」
「生命なんかどうでもいい。口を開いて落ちるまで、一心不乱に仏教を説く」
「答えないでぶらさがっている」
等々の答えが考えられますが、果たして落ちるまでに仏教が説けるのか? ぶらさがっているだけで仏教徒の使命が果たせるのか? それに、ぶらさがっているだけではそのうち疲れ果てて落ちてしまいます。
「手足を使って木から降りて、降りてから仏教を説く」
答えの一つです。
手足は使わないと決めたのは、この問答を投げかけた香厳という偉いお坊さんです。しかし、偉いからと言って、そこにとらわれる必要はありません。
私たちには手もあり、足もあります。
とらわれると、こんな簡単なことに気が付きません。いや、わかっていても縛られて行動出来ないのです。
私たちは普段の生活で同じことをやっています。とれわれた範囲内で問題解決策を探し、見つからないと悩んでいないでしょうか。
それでは、私たちを縛っているのは何でしょうか。
法律、規則、組織、社会、親、目上の人、等々、様々なものが考えられます。
しかし一番は自身が生まれたときから積み重ねて造ってきた「価値観」「我」ではないでしょうか。このとらわれが、気付かなくし、わかっていても動けなくします。
頭の中を空にし、自由になってください。
問題解決方法を見つけ、行動するのに役立つと思います。